2007年1月、仕事でホーチミンに行った時のことです。訪問先の応接室に置かれていた小さな卓上カレンダーの絵に心を引かれました。それがグエン・ファン・チャンの作品との出会いでした。「籾篩 もみふるい」( 1960年)だったと思います。
その後、画家のことを調べましたが情報は得られず、翌2008年5月作品を観る為にベトナムを再訪しました。そこで画家の長女で作家のグエット・トゥさんとの出会いがありました。初めてお会いした席で「父親の作品が傷んでいる。父の作品を次代に遺すために力を貸して欲しい」ともちかけられました。
頂戴した画集でグエン・ファン・チャンの魅力を知りました。戦時下に暮らす農村の素朴な女性や子供の姿を温かい眼差しで丁寧に描き上げているのです。
帰国後、友人の紹介から大学教授、文化ジャーナリスト、日本画家、美術館の学芸員の方々を訪ね、絵画の修復についての知識と方法を教えられました。グエン・ファン・チャンを日本に紹介したアジア近代美術の研究家九州大学教授 後小路雅弘氏を訪問したのがきっかけとなり、絵画保存修復家岩井希久子氏と出
会いました。
2009年、岩井氏と作品調査のためハノイのグエット・トゥさんを再訪、3点の絹絵の保存修復を依頼されます。いずれも損傷が激しく調査した岩井氏からは「このまま放置すれば時を経ずして絵は失われてしまう」と診断されました。
経済発展と社会インフラ整備が進むベトナムですが、絵画や美術品のおかれている状況は残念ながら立ち後れています。加えて高温多湿な気候風土が追い打ちをかけています。保存修復費用を捻出するため奔走しましたが、なかなか理解が得られませんでした。
2010年、ベトナムで事業を展開する三谷産業(株)の会長三谷充氏の協力が得られることになり、ようやく保存修復が始まりました。11月には3点の作品を日本に搬送し岩井氏の保存修復が始まりました。薄い絹に描かれ、戦時中の物資不足から劣悪な紙で裏打ちされた作品は虫食いや黴、欠損や裂帛の激しい状態です。岩井氏の執念の保存修復は約1 年続きました。この保存修復作業はNHKの番組にもなりました。放送された番組をご覧の方もおられることでしょう。
2011年10月、保存修復が終わり岩井氏独自の保存法(脱酸素密閉)がなされた3 点の作品は金沢21 世紀美術館で展示公開されました。この展覧会のオープニングセレモニーには高齢と体調不良で訪日が心配されたグエット・トゥさんも列席し感謝の辞を述べられました。グエット・トゥさん所蔵の作品の保存修復活動は続けられ、2012年には2枚の絹絵と8枚のデッサンが海を渡りました。
2015 年第2 次保存修復展が東京新宿のB GALLERY で開催されました。保存修復が施されたグエン・ファン・チャンの代表作のひとつ「籾篩 もみふるい」も展示されました。
11月には保存修復が施された「籾篩 もみふるい」のハノイへの里帰り、そしてグエット・トゥさん宅に所蔵されている絹絵やデッサンすべてを(脱酸素密閉)保存する為にハノイに渡りました。この作業は、(株)TTトレーディング、三菱ガス化学(株)の協力を得て行いました。
現在も保存修復は続けられています。3点の絹絵が岩井氏のアトリエで蘇りました。今回の保存修復には日本の最先端の技術も導入されています。(株)エーディエスの協力で高精細デジタルスキャンされた画像を使用し、セーレン(株)の協力のもと岩井さんの保存修復設計図ともいえる保存修復シミュレーション、保存修復の完成度を上げる為の裏打ち紙のプリント、そして本物の絵では叶えられないデジタル復元までも行われています。
5月10日から一週間、東京上野の森美術館ギャラリーで現在までに修復された7点の絹絵と10点のデッサン、そして福岡アジア美術館所蔵の作品が一同に展示されています。グエン・ファン・チャン作品の魅力、そして岩井さんはじめ多くの企業や人々が関わった絵画保存修復の世界を是非ご覧下さい。